今日は、平林初之輔の「文学方法論」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
平林初之輔は、あまたの文学を読破してきたその経験から、文学には三つの傾向があることを指摘しています。
「第一の条件は作者」の「個人性」が作品に色濃く刻まれるということで「第二の条件」は「文学上の流派」やそういった集団からの影響を色濃く受けると言うことで、「第三の条件」は「一般公衆の思想、観念、感情、一言で言へば、イデオロギイ」が作品に影響を与えているというんです。読者がまったくちがう種類のものなら、次の作品は変容してゆく。海外の人が読んだり、数百年後に読まれるときには、おそらく作品そのものや作品の価値も変容する、と考えることが出来ます。以下の文章がすてきでした。
……第三の条件を忘れてはならぬ。それは作者をとりまいてゐる一般公衆である。一般公衆の思想、観念、感情、一言で言へば、イデオロギイは、文学の流派そのものを決定し文学作品の作者の思想傾向を決定し、それによつて作品そのものを決定する最後の条件である。たとへば、ヴイクトル・ユゴオの『レ・ミゼラブル』を例にとらう。私たちは、先づこの作品にユゴオの個人性の強い現はれを見る。次にユゴオがその指導者の最も輝ける一人であつたロマンチツク派の特色をそこに見る。そして最後に、ロマンチスムの文学がその中で生育したところの当時の一般公衆のイデオロギイ即ちブルジヨアジーの勃興期のイデオロギイをそこに見るのである。
今回の評論を読んでいて、100%のまちがいが2箇所あって、これが気になったので調べてみました。1つめは「一切の理論は経験から出発しなければならぬ」という平林の主張についてなんですが、理論のほとんどは、経験に先立つアプリオリなものを記したのであって、平林初之輔の主張は間違っています。平林はカントの後の時代なのですけれども、この箇所で考えかたを間違っているか、書き方をまちがえたことになります。「経験から出発するだけでなく、経験に帰つて来なければならぬ」という平林の主張は、魅力的な方針であるとは思うのですが。
次に「……生れたものは生まれながらにして」という箇所で、たとえばラフカディオハーンの子孫が居ることを考えずに書いているので、これも書き間違いです。ほかにも文学理論をいろいろ書いていってます。数学の本だと、正解か誤答かしかないんですけど、文学の理論となると、だいぶこういろんな要素が混交していて、間違ったことを書いているのに勉強になるところがある、と思いました。
百年前は図書館も使えなければwikipediaも無かったので、思考や推論に明らかな間違いが混じっているんだなあと、思って、なんだか不思議な気分になりました。本物の現代哲学者は判らないことがあると、wikipediaもGoogleもまったく使わずに、まずは自力で問題に取り組んで、もっぱら自らの頭脳を使いこなすらしいです。ぼくはまっさきにwikipediaを検索してから腕組みして検討するんですけど。平林は終盤でこう書くんです。「誤解やまちがひが多分にあることと思ふ。併し、それは、この試みがまだ極めて幼稚な段階を進んでゐるに過ぎない事実に免じて、見のがしてもらへるだらうと期待してゐる。」
百年前と今はずいぶんちがうんだなあと思いました。平林初之輔は、文学に影響を与えるものを、自然界や経済や政治や社会から読み解くのですが、平林がもし、0円で書いて0円で読むwikipediaを論じたら、いったいどういう論を導き出すんだろうかと思いました。
文学の理論よりも、理と論ってなんなんだろうと思わせる、不思議な随筆でした。
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