春深く 久保田万太郎

 今日は、久保田万太郎の「春深く」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 二十九歳の春に、群馬県の磯部を旅した。

  磯部を選んだのは、島崎(藤村)先生のたしか「芽生」のなかにそこのことが出て来るのと岡本(綺堂)さんが、その少しまえ、そこへ暫しばらく行っていられたというのを聞いたのと、そうした二つの理由からだった。

 島崎藤村と岡本綺堂が好む旅先ということで、文学的な空想を脹らませながらこの地を訪れた「わたし」は、奇妙な事態に遭遇します。

 切符をわたして思った以上に小さい、人けのないガランとした停車場の構内を出ると、繁り切った桜の嫩葉わかばの、雨を含んだ陰鬱な匂がしずかにわたしに迫った。——あたりはもう灯火のほしいほどに暮れかけていた。
「鳳来館まで。」
 二、三人、わたしをみてそばへ寄って来た車夫の一人にわたしはいった。
  
 期待して訪れた宿は、ずいぶん寂れていて汚かった。一人でなにも持たずに、文豪が好む、噂の場所を訪れても、なにも起きなかった。本文こうです。

  要するに、島崎先生と岡本さんの好みにあうところならと思ったのがそもそもの間違いだった。島崎先生なればこそ、岡本さんなればこそ、それぞれ折合えるものもみ出されたのである。(略)風の絶えた墓原のようにわたしには心細い場所だった。
 
 空虚で漠とした描写がかえって、奇妙な旅情を捉えているように思えました。日本近代の随筆の特徴がよくあらわれた作品に思いました。
 

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