生存理由としての哲学 三木清

 今日は、三木清の「生存理由としての哲学」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 戦争中に書かれた哲学書は世界中にあるんですけど、まだ輸入ものでしかなかった日本の哲学は、どうも生存理由レーゾンデートルとしての哲学としては成立しがたい状況である、と三木清が記しています。
「学校において文学の代りに語学の講義を聞かされて憤ることのできる者」はいっぱい居たんですけど、「哲学すること」のかわりに「哲学の記録の便覧」のはなしをされても「これは違うんじゃないか」と思ったりしない。日本では「哲学すること」が「生きること」とほとんど結びつかないし、教育としては成立しにくい。三木清の文章は、むずかしい問題を分かりやすく書いてくれているのでほんとにすてきだと思うんですが、本文にこう書いていました。
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  現代において、哲学するということは、人間の生存理由のいかなるものであり得るか、この根源的な問に対する情熱が哲学者といわれる者の倫理でなければならぬ。科学としての哲学、イデオロギーとしての哲学、等々の問題も、この問に比しては従属的であり、皮相的ですらあろう。quomark end - 生存理由としての哲学 三木清
 
 三木清は、生存理由レーゾンデートルとしての文学は二十世紀の日本に存在する……と文学を肯定的に捉えていたようです。今回の指摘を読んでいて、海外の哲学書を日本語訳で読んで感動した、その理由が見えたように思いました。三木清は「哲学することの倫理について、哲学者が根源的に問うことが何よりも要求されている」と記していました。
 

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