語られざる哲学 三木清

 今日は、三木清の「語られざる哲学」を公開します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 ぼくはKindleアンリミテッドのキャンペーン期間を利用して、つい昨日までamazonの電子本をiOSで音声読み上げして楽しむ、ということをやっていたんです。それで、エンデの「モモ」や、鴨長明の「方丈記」や、デカルトの哲学書を読んでいたんです。今なぜか、この2022年にどういう理由か分からないんですけど、Amazon利用者のなかでは、哲学関連でデカルトがどうも人気なんです。デカルトは、あらゆることを疑ってみることによって、偉大な哲学を見いだします。ふつう疑い深いと自分も疑ってしまって、疑い続けて自分の人生を壊してしまう、パン屋が小麦粉をこねる水車の謎を追ううちに水源の源をさぐって森の奥底で迷ってしまう、という展開が多いと思うんです。デカルトはその逆で、疑うほどに自己自身の確実なところだけが明らかになっていったんです。
 あらゆるものを疑ってゆくと、疑いを持っている自分の存在だけは疑いようがないという事実を発見した。もっとも信頼できるのは自身の存在そのもののみで、そこから世界のありさまを考えてゆく……。「我思うゆえに我あり」という哲学を記して千年後にも(おそらく)語りつがれる、そういう偉大な学問をのこしたんですけど、後の哲学者から、デカルトが自己の存在証明をしてからすぐに神の存在を証明しようとする箇所での間違いが繰り返し指摘されているんですけど、そういう間違いがあっても、根本的なところで過去の常識をまるごと覆す哲学を作れた、というのがすごいなと思いました。
 他人や社会を変えるよりも、自己の欲望を変えることを重視した、デカルトの思想がいま読んでも面白いように思いました。
 デカルトは、国家や神学を探究するよりも、ほかならぬ自分自身を探究してゆくほうが信頼に値すると言うんです。どうしてかというと、自分で自分の方針を決めて、もしそれが間違っていると、自分で自分に負荷をかけてしまうわけで、自分の考えを深めたばあいは思考と結果が結びつきやすくて実践的であって大まちがいの考えを修正しやすい。
 デカルトはなんでも疑えと言っているわけではなく、自分でしっかり考えた方針はコロコロ変えないほうが良い、自分で自分の根本的なところを否定すると森で迷って同じところをクルクル廻っているようなことになってしまう、と記しています。
 三木清は「語られない哲学」について論じるにあたって、デカルトについてこう記しています。
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  カントは哲学に正しき問い方を教えたものとして、デカルトは哲学の正しき出発点を見出したものとして殊に称讃されている。語られざる哲学の問題は、一体、いかにして正しく提出され得るであろうか。quomark end - 語られざる哲学 三木清
 
 不言実行における不言の思想の展開について、三木清が論じています。三木清は、哲学者カントを重大視し、文学においてはゲーテに私淑していた、と本文に記していました。親鸞や、生活や、詩や、ダヴィンチや、あらゆることを随筆のように記しています。この文章が印象に残りました。
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 番犬のような吠えつく心、刑事のような探る心、掏摸すりのような狡い心を棄ててしまって、嬰児えいじのような無邪気で快活な心に還ること(略)社会の人々がもっと正直で無邪気になっておのおの美しい夢に酔うことができたならば、私たちの社会はどれほど改善されるであろうかquomark end - 語られざる哲学 三木清
 
 三木清は、苦についてさまざまに論じたのちにこう記すんです。「私が楽しみに多くの価値をおくところの理由は、それが素直な心を成長させやすいことを思うからである」このあたりの、後半の議論がすてきでした。くわしくは本文を読んでみてください。
  

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