今日は、芥川龍之介の「鑑定」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
児玉果亭の山水画を買ってきて飾っていた、真贋で言うとおそらく無名の画家の作品であるはずだが……という話しが記されているんですけれども、美術に関して、つねづね思っていたことを芥川龍之介が書いていてちょっと嬉しく思いました。画集や本や聖書は、そもそも本物の原作では無くて、写真機や印刷機を用いた複製物にすぎないんですけれども、それは鑑賞するにあたって問題にならない。手作業で複製した絵画作品は画集より明らかに質の高い作品なわけで、たしかにスタンドアローン状態の原画には劣るとしても、美術として鑑賞するにあたって、画集以上に、質が高い。盗難目的の複製はただの犯罪ですけれども、合法の範囲内なら鑑賞の対象になる。
前田青邨がこういうことを書いていたんです。
ある時芍薬を描こうと思ったがちょうど自分のスケッチ帳がなかったので、人のスケッチを借りて描こうと思ったことがあった。そのスケッチは実に克明に微細な点まで写生してあったが、私には何の力ともならなかった。つまり急所が描けていなかったのである。たとえ簡単な線書きだけでも、自分の写生ならば一本の線から無限の真が浮き上がって来る。しからば写生のみで、画業の進歩は得られるかというとそうではない。同時に古画の研究が大切である。(略)自分の心持に感じた名画を克明に模写してみると大いに悟るところがあると思う。 (写生と古画研究 大正15年 1926年)
芥川龍之介はそう言えば、海外の古典から着想を得て、それを模写するように、日本的な物語を作ったことがままあったのですけれども、前田青邨の論じているところと、共通したことを考えていたように思いました。資本主義から見れば複製というのは、価値が低いのかもしれないんですが、作品としての価値はある。焼き物の大半は複製の技法をもって作られているわけで、無名の作者の作物として、鑑賞の価値はある。
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