私の日常道徳 菊池寛

 今日は、菊池寛の「私の日常道徳」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 文芸と商売を両立させた……いちばんはじめの近代作家は菊池寛だと思うんですが、そのお金持ちの菊池寛が、人づきあいやお金のことを訓示っぽく書いていて、なんだかすてきな随筆でした。
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 貴君のことを誰が、こうこう言ったといって告げ口する場合、私は大抵聞き流す。人は、陰では誰の悪口でも言うし、悪口を言いながら、心では尊敬している場合もあり、その人の言った悪口だけがこちらへ伝えられてそれと同時に言った賞め言葉の伝えられない場合だって、非常に多いのだから。quomark end - 私の日常道徳 菊池寛
 
 なにかの不備については自分で発見したほうが上手くゆくわけで……不備を指摘をする必要はないという話しや、お金に関することや、他にも勉強になることがいろいろ書いてありました。
 

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散歩生活 中原中也

 今日は、中原中也の「散歩生活」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 中原中也が複雑な状況のことをほんの数行でみごとに書いていて、読んでいて見入られました。言語化しにくいことを明確に書けるのが詩人の特徴なのでは、と思います。それから日々の散歩で見た風景や、中高年ならではの行き詰まりのことを記し、文芸や学問や「なんのことだか分らない」当時の議論のことを正直に記していました。
 

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生きること作ること 和辻哲郎

 今日は、和辻哲郎の「生きること作ること」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 和辻哲郎といえば難解な哲学書を書く思想家であって、その思想書の全文を精読できる人はめったに居ないのではと思うんですが、今回のは読みやすい言葉で、おおくの人が知っている古典文学について記しているので読み通しやすいように思いました。
 ダヌンチオ(ガブリエーレ・ダンヌンツィオ)を戦中に批判できた人はほとんど居ないのではと思っていたんですが、和辻氏は1916年(大正5年)ですでに、ダンヌンツィオの作品の「冗漫に堪え切れない」と記していて、トルストイの作物には「語の端々までも峻厳な芸術的良心が行きわたっている」と記しています。ほかにもドストエフスキーやさまざまな作家について論じていました。
 思想や芸術は、実体験とどのように関連するのか、というのがずっと気になっていたんですが、和辻氏のこの論述が鋭いように思いました。
quomark03 - 生きること作ること 和辻哲郎
  体験の告白を地盤としない製作は無意義であるが、しかし告白は直ちに製作ではない。告白として露骨であることが製作の高い価値を定めると思ってはいけない。けれどもまた告白が不純である所には芸術の真実は栄えない。quomark end - 生きること作ること 和辻哲郎
 
 和辻氏はじつは、若いころは破滅的な物語小説を書いていたんですが、同時代の谷崎潤一郎の文才に打たれて、小説をやめて哲学に向かっていったそうです。
 和辻哲郎の哲学書は和製の帝国主義に於ける思想の混乱と絡んだものもあって、異様に難解だと思うんですが、この「生きること作ること」は読みやすいことばで、芸術と生について記していて理解しやすく、和辻氏の難読書を読むときには、この随筆と併せて読むと良いように思いました。
 後半で、和辻氏は、今からゲーテファウストのような、生き直しの本を書かねばならぬと記すんですが、そこでこう述べるんです。
quomark03 - 生きること作ること 和辻哲郎
  私の考えでは、私の夢想するファウストは私の愛がゾシマのように深くならなくてはとても書けそうにない。今の私の愛は愛と呼ぶにはあまりに弱い。私はまだ愛するものの罪を完全には許し得ないのである。愛するものの運命をことごとく担ってやることもできないのである。それどころではない。迷う者を憐れみ、怒るものをいたわることすらもなし得ない……。quomark end - 生きること作ること 和辻哲郎
 
 ゾシマというのは『カラマーゾフの兄弟』に登場した、敬虔な老僧のことです。
 最後の一文が辛辣な自己批判で、衝撃的でした。ディケンズやトルストイといった古典文学を読むにあたって、とても参考になる随筆に思いました。忘れないよう、なんども読みたい随筆だと、思います。
  

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空車 森鴎外

 今日は、森鴎外の「空車」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 むなぐるま、というのは古言で、これを聞けば今昔物語集にあるような絵巻物の情景が連想される、と森鴎外はいいます。だから現代の世界で「むなぐるま」という言葉は簡単には使えない。
 現代の文章に「古言をその中に用いたのを見たら、希世の宝が粗暴な」使われ方をしたと思ってたいていの人は憤慨する。そして森鴎外は「不用意に古言を用いることを嫌う」のですが、現代文にやはり「ふと古言を用いる」「あえて用いるのである」と述べています。
 どうしてかというと「古言は宝である」から不用意には使えないけれど、この古語というのをひとつも使わないなら、古語が誰にも使われなくなってしまう。だから傷がつくけれども、新しい性命を与えるために古語を使ってゆくと、森鴎外は述べています。
 ここから森鴎外は、自分の見た、とても大きな空車について記すのですが、妙に印象的で、なんだか中国の禅僧のかんがえた十牛図の果てしない世界を連想しました……。老子が「無用之用」にて描写した車輪と通底している、空車の描写であって、後半の数行がみごとな随筆でした。

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ムジナモ発見物語り 牧野富太郎

 今日は、牧野富太郎の「ムジナモ発見物語り」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 さいきん朝の連続ドラマで有名になっている牧野博士の本を、当サイトでも小さな電子書籍にしてみました。ぼくは牧野富太郎の本をたったの3回だけしか読んだことがないんですが、ちょっと調べてちょっと読んだだけでもすごい人で、19世紀の1862年生まれなのに戦後にも生きていて長命で、商人から学者になった植物学の専門家で、じつは夏目漱石とほぼ同時代で、漱石のほうが年下だったわけで、漱石って長生きしていたらじつは1950年とかの戦後にも生きていたんだとか、自然科学の思想は長命に有効なのではとか、随筆を読むだけでもいろいろ不思議なことが見えてくるように思いました。
 この随筆では、牧野博士が発見した「ムジナモ」という水草について記しています。wikipediaでもこのムジナモのことは詳しく記されているんです。他の植物学の現代書を開いても、牧野富太郎博士の発見した植物はあまたに記されているんです。
 ところでこのムジナモを発見したことによって、世界的な植物学者として認識されたそうですが、旧帝大ではこれに関連して牧野博士が排除されてしまったという事態があったそうです。どういうことなのか、もうちょっと詳しく知りたいなあと思いました。どうも研究の競合があったようで、これが原因で牧野博士は研究所を追い出されてしまったようなんです。
 ムジナモは根を持たず、水の中の虫を捕らえて栄養とする、というたいへん珍しい植物で、この生態について細かく記していました。
 作中に記された、エングラー監修の本というのは、アドルフ・エングラーの『植物分科提要』のことです。調べてみると114ページに”Makino auf Nippon”と記されていました。ムジナモの画像もネットにいくつか載っていました。
  

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方則について 寺田寅彦

 今日は、寺田寅彦の「方則について」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 寺田寅彦は百年前の物理学者なのに、わかりやすい言葉でものごとを論じてくれて、読みやすいところがあるのが特徴だと思うんですが、今回のは対象者が科学者にたいしてのものなのか、難しい文体で記されていました。カオス理論に近いことを論じていると思うんですが、宇宙や自然界は鴻大すぎるので、自然の世界で起きる法則を人間が読み解けないのでは、という問題提議でした。
 引力は実際に存在していて、月の引力は海に影響を与えるわけだし、太陽の引力で地球が回転して昼夜が生じるし、春夏秋冬ができてくる。寺田寅彦は、もし引力が遠方にたいしてもっと強力な作用をもたらした場合は、どういうものになっただろうかという架空の世界を想定するんですけどSF的でした。
 寺田寅彦はいっけん些細な問題のはずの、ものの長さを数字で規定することのむずかしさを論じています。一尺の竹というように記したとしても、翌日にはその竹の長さはすこし変化している。一定のものというのは存在しない、ということを述べています。
 測定や方則にも、そういった細部のズレが必ず存在しているわけで、それを考えた上で、理論や統計や方則というのをとらえてみるようにと、寺田寅彦は述べています。本文こうです。
quomark03 - 方則について 寺田寅彦
  平たく云えば、方則というものを一種の平均の近似的の云い表わしと考えるのである。そうすれば方則というものはよほど現実的な意味を持つようになって来る。このような区別は甚だつまらぬ事のようであるが、自分はあながちそうとは思わない。quomark end - 方則について 寺田寅彦
 
 また、だからと言って方則や科学的考察がまったく役に立たないわけではなく「現在の知識の限界を」知り「方則を疑う前には先ずこれを熟知し適用の限界を窮めなければならぬ。その上で疑う事は止むを得ない」と記していて、天動説から地動説へと、科学的考察の土台もガラッと変化したことがあることを例示し、科学的な方則、あるいは道徳的な方則が、大きく変化してゆくことは今後もあるはずであることを記していました。
 今回はポアンカレや「フックの法則」や「クーロンの法則」について論じていました。

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