古江 高濱虚子

 今日は、高濱虚子の「古江」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 水売舟というのは、水を売っている船だそうで、日本でも飲料水を売る仕事というのがあったそうです。
 どこのはなしなのかというと、どうも長良川の河口の長島のはなしのようで、この小さな小島はあたかもヴェネチアのような、日本の水上都市だったようです。
 金だらいをつかって、川辺で洗濯をしている風景。当時の女の仕事を、高浜虚子が記しています。
 舟がてきとうに放置されている、下駄を脱ぎ捨てたかのように、置かれている。そういう風景画でした。

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旅からのはがき 水野葉舟

 今日は、水野葉舟の「旅からのはがき」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 花巻から遠野にむけて一人旅をしている、そこから出される手紙について、水野葉舟が記しています。遠野の奥地にいって、ちょっと方言が色濃すぎて言葉が聞きとれない……。水野葉舟は、柳田国男とも縁のある、怪談で有名な近代作家です。

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温泉 梶井基次郎

 今日は、梶井基次郎の「温泉」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 梶井基次郎以外に、いろんな近代文学を読んでみたのですけれども、梶井基次郎の描写はほかと比べものにならないくらい、細部までじっくり書きあげていて、とても空想で書いたものに思えないんです。動画で撮ってもここまで環境や人工物や人の流れ、それからそれぞれの内情まで書けないわけで、梶井基次郎の描写はそれらを越えて詳細なんです。
 じつは行ったことがない架空の場所であってもおそらく梶井基次郎はここまで描けてしまうんだろうと思う箇所があるんです。「これはすばらしい銅板画のモテイイフである」と記している。風景の描写に混ぜるように空想も記している。おそらくこれは梶井が1年半ほど療養のために暮らした伊豆の「湯ヶ島」での実体験を元にした紀行文だとは思うんですけれども、あるいは銅版画を見てその風景の奥に聳える暗闇まで描けるのが、梶井基次郎だろうと思いました。
 車窓から旅先の田園風景を一瞬かいま見ても、その地を知ったことにはならないわけで、ちょうどその対極にいるのが梶井基次郎のように思いました。梶井は見知らぬ村の家々の暮らしまで描きだしているのがすごいなと思いました。
 崖を見て、その数十年前の豪雨やのちの水害について思いを馳せている。いまの風景を描写するだけでは無くって、数年前の風景まで見ていて、見えているものがぜんぜんちがうんだなあ……と思いました。耕作のために泥まみれになった馬が、農民に導かれ温泉の湯で洗われてきれいな姿になっている。川烏や懸巣の描写が美しい、すてきな随筆でした。
 

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大船駅で 萩原朔太郎

 今日は、萩原朔太郎の「大船駅で」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 詩人がとくになんというものでもない旅のエッセーを書いているんですけど、これがなんだかすてきでした。何かをし始める寸前のところ、旅がまだ始まってないところがもっとも魅力的であるというのは、うっすら思っていても言葉にできないとふつう思うんです。萩原朔太郎は、ふだん思ってることからもう詩なんだなと、思いました。本文こうです。
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  旅行の楽しさは、しかし旅の中になく後にない。旅行のいちばん好いのは、旅に出る前の気分にある。『旅に出よう!』といふ思ひが、初夏の海風のやうに湧いてくるとき、その思ひの高まる時ほど、実際に楽しいものはないだらう。旅行は一の熱情である。恋や結婚と同じやうに、出発の前に荷造りされてる、人生の妄想に充ちた鞄である。quomark end - 大船駅で 萩原朔太郎
  

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こころ 夏目漱石(中巻)

 今日は、夏目漱石の「こころ」中巻を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 漱石は明治元年に1歳で、明治晩年に45歳で、「こころ」を書いたのがその2年後で、それから数年後に寿命を迎えています。当時の平均寿命は43歳くらいなんです。漱石は今で言うと80歳くらいで亡くなった、という感じなんだと思います。漱石は明治時代をずーっと生きていって、明治天皇が亡くなったあとはもう老境という感じだったのではと思います。昔読んだときは、ほとんど気にならなかったのですけれども、この「こころ」では、「先生」が亡くなる、父が亡くなる、そういうことが描かれているのですけれども、明治天皇が亡くなるという話もここに記されているんです。登場人物にとって重大な人が亡くなる、ということが描かれています。
 父と古い家と新しい人がどうなるのか、重要人物が亡くなるときにどういうことが起きるか。この2つが物語の軸にあると思います。これはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』でも描かれたことですけど、ずいぶん異なる考えで描かれていると思いました。
 「こころ」では父は長く生きてから寿命を迎える、いわば平和な大往生なんです。
 「カラマーゾフ」の父は強欲で敵が多く殺されて死んでしまう。高僧ゾシマ長老が亡くなるところに立ちあった主人公アリョーシャ青年は、その死があまりにあっけなく腐臭を伴って聖性を感じさせないことで思想上の激しい動揺にさらされます。ゾシマの願いどおりにアリョーシャは俗世間に帰るわけで、永眠者の思いを継ぐにはどうすべきか、ということが物語の重大な要素になっていると思います。
 現実の漱石は、正岡子規の没後すぐに生前子規がいちばんだいじにしていた「ほととぎす」に原稿を送ってくれと子規の弟子に依頼されて、それで作家になった。漱石は子規の遺志を継いでいるんです。「こころ」では、先生と父と天皇の死という3つが描かれます。主人公「私」は永眠者のどういう意志を重大視しているのか……というのに注目をして読んでみました。
 漱石は自身の重い病についても「こころ」の数年前に考えていたわけで、いわば作者自身の最晩年にかんしても小説に反映させているように、自分には思えます。極端に長すぎる先生の遺書というのが作中に載せられてゆくことになるんですけれども、これがそのまんま小説になっています。「先生」から数百ページくらいの遺書が「私」あてにとどいた、読んでみたら、そのまんま小説だった、この小説を書いたのは漱石で、だったらこれは漱石の、文学的な遺書……のようなものとして読めるはずで、そうなると主人公「私」というのはのちの時代に生まれてくる新しい読者、を代表している人物ということになるのでは、と思いました。先生はある事件に関わっています。先生の悔恨、その謎というのがだんだん現れてくる小説なんです。
  

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夭折した富永 中原中也

 今日は、中原中也の「夭折した富永」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 中原中也が、富永太郎の詩集と彼の人生について記しています。ぼくはほとんど読んだことが無かったのですが、富永太郎はボードレールの詩を翻訳していて、これがみごとなんです。またいつか富永太郎の詩を読んでみたい、と思いました。
 

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