今日は、村井政善の「蕎麦の味と食い方問題」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
この本では、いろんな人が蕎麦の話しをしています。近代よりも現代のほうが、衣食住の質が上がったわけなんですけれども、食や住が不足しがちな近代では、かえって食に対するこだわりが色濃く、また問題も鮮明で、この時代の食の随筆を読むのがなんだか面白いように感じました。
食通の作者によれば、柏原が信州で唯一、美味い蕎麦が食えた、のだそうです。ちょっと調べてみると一茶が愛した柏原蕎麦というのが今も長野にはあるようです。
祭のさまざま 柳田國男
今日は、柳田國男の「祭のさまざま」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
観光としての祭りは世界中にあって、京都で行われる神事は外国人が見学に来たりするんですけど、じっさいに祭りに参加をするわけでは無い。神輿をかつぐのはやっぱり地元の人たちでやっている。祭りの中に居る人は古い習俗の感覚と繋がっているわけで、その古い祭りの様相を、柳田国男が記していました。本文こうです。
故郷を出てしまふと他所の祭に出逢ふことが少なく、めつたに其話を人とする折がない
それ故に人は皆大きな花やかな混雑する祭だけを、祭といふものだと思つてゐる。
観光地化されていない祭、というのを見てみたいもんだと思いました。さいきん百年前の不気味な事件について記した本を読んだ影響で、この時代の日本に、祭に絡んでいったいどういう民間の事件があったのか、柳田は書かないところのことが気になりました。時節の変化のあるころに、物忌みをして他者と触れあわないように隠れるという習俗があったわけで、そうすることによって想定外の事件を事前に避けるような効果があったのではないか、とか、空想をしました。
この記述が印象に残りました。
大切なことは祭の準備、即ち古来定まつた手続き規則が、少しもぬかり無く守られてゐたといふ自信さへあれば、神様は必ず来て下さるものと安心してゐられたのである。皆さんにはちとむつかしい言葉かも知らぬが、昔の人はこの用意を、ものいみ(物忌)と謂つてゐた。
祭の日の前になると、家々は皆外から来る人を断つて、厳重な物忌を守つたのであるが、人が多く集まるとどうしても故障が起りやすい。それで祭に是非働かねばならぬ人だけは、別に離れて住んで何日かの間、謹慎してゐたのであつた。
このあとの、御籠もりの描写がおもしろかったです。
むつかしい言葉を調べてみました。
産土 大字
反スタイルの記 坂口安吾
今日は、坂口安吾の「反スタイルの記」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
坂口安吾というと、堕落論や大酒についての記述が印象深いのですが、今回はヒロポンのことを書いた随筆です。wikipediaの記述と同時に読んでみると、なんだか興味深かったです。
坂口安吾は戦争に動員されずに文士として生き残った希有な作家だと思うんですけど、戦時中の危険な精神状態と薬物依存のことや、織田作之助のことについて書いていました。坂口安吾の文体がたまにとてつもなく乱れることがあるのは、どうも深酒をして書いているから、であるようです。(ぼくは安吾のムチャクチャな文章を読んだときに、安吾は随筆が上手くて、小説がヘタなんだと思い込んだんですけど、どうもそうじゃなくって深酒が原因だったようです)
戦後すぐの日本の共産党員のファッションについて氏の友人がこう語っていたそうです。
共産党はみんなオシャレだよ。とても、身だしなみがいゝんだ
1947年の共産党って、清潔な身なりだったようです。安吾はそうではなかった。
ほうき一本 宮本百合子
われらが四季感 佐藤春夫
今日は、佐藤春夫の「われらが四季感」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
日本には四季がある、というのは、ちょっとした書き間違いだと思うんですけど、日本の文学ほど四季が重大な文学はめったにないんじゃないかと思います。俳句は、そのほとんどを季語を用いて作られますし。漱石も鴎外も、そして今回話題になっている芥川龍之介も、俳句を数多に作った。佐藤春夫は、こう記します。
四季それぞれに、さまざまな衣類が世界のどこにくらべても多すぎるほど多いらしい事実に鑑みて、これは我々の日常生活が格別にゆたかといふでもないのに、衣類だけがこう発達したのはわが国の季節の変化がそれほど微妙なため、またはわが国人が季節の変化に敏感なためだと思へる
今までまったく気が付かなかったんですけど、近代文学には和服の描写がけっこう、こと細かに記されているんです。