学問のすすめ(6)福沢諭吉

 今日は、福沢諭吉の「学問のすすめ」その6を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 原初の政府とはどういうものなのか、今回はこれを福沢諭吉が論じています。福沢はたびたび、犯罪者と刑法について書いています。政府の活動の中心は「犯罪者をとりしまる」ことだというんです。ふつう、現代政府というと、市役所に住所変更の申告に行くくらいのもので、あまり政府と刑務所とは関係が無さそうに思えるんですが、福沢の本を読んでいると、たしかに、政治のやることの中心には、犯罪の抑制をするところにあるように思えてきます。国民が個人的に、賊に体罰を与えることは許されない。政府だけにこの権能がある。かってに裁判したり、かってに裁いたりしたらいけない、というのが法治国家の中心にある。犯罪については政府に任せる……。危ないときには正当防衛がありえるんですが、それ以外では、犯罪者にたいして行動しない、ということを子どもにもわかりやすいように、福沢諭吉が説いています。すっごい悪人を、蹴ったりしたらダメである、ということを難しい言葉で記しています。
 今回の福沢の訓示を読んでいて、これはほんとに、近代と現代の日本人の特徴がよく現れているなと、なんとも納得がゆきました。
 戦国時代や江戸時代だと「仇討ち」というのが日本の伝統だったと思うんですが、明治大正昭和現代では、これと大いに異なる「自分からは手を出さないで、犯罪については政府を信任する」という思潮が発展したんだなと思いました。
 こんかいは、忠臣蔵の騒動について、批判的に記していました。それから士農工商の格差によって殺人が認可されていたことも厳しく否定していました。政治内の政敵の問題についても論じています。天誅の非論理性についても書いています。問題があるのなら、訴えて論じるべし、というように勧めていました。
 中世近代から現代社会への変化の要点について書いている、と思いました。今回の第6章はかなり興味深い内容なのでお薦めの章に思いました。
 また大学の運営について、政府の杓子定規な規制がはいっていて、これについて「政府に従いつつ、政府について主体的に論じよ」ということを実践したことを、福沢諭吉は記していて、現代とあまり変わらない問題が書いてあるように思いました。
 

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樹木とその葉 歌と宗教 若山牧水

 今日は、若山牧水の「樹木とその葉 歌と宗教」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 近代日本の宗教性というと、西洋文学に影響を受けて、聖書の物語を、小説に引用している箇所が多いのと、北海道の大学で、キリスト教と文学研究が盛んになされたというのと、賢治や漱石が仏教の影響を色濃く受けているところがあるのが、近代文学の特徴なのかと思います。若山牧水は、宗教性を持たない自己のことを今回、論考しています。
 若山牧水は、自身の「歌」のことについて思案しながら、宗教とはどういうものかを考えてゆきます。歌を作るからには、自己の表出がある。そこには、無私や帰依とは異なる人間性があるはず、と指摘していました。本文こうです。
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  何か知ら自分の思つてゐることを言ひ現はしてみたいといふ心の下には必ずその「自分」といふものが動いてゐねばならぬquomark end - 樹木とその葉 歌と宗教 若山牧水
  

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追記  古来のものや大きなものを頼りとせずに、自分で自分の歌を作っている若山牧水の説く「歌と自分」との関係性のことを読んでみると、なぜ賢治や漱石は、こういう牧水の考えとは異なる展開で「無私」を要点とした創作が出来たのか、どういった心境で小説を書いたのだろうかと思いました。
  

怪異考 寺田寅彦

 今日は、寺田寅彦の「怪異考」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 幽霊やUFOの話しを聞いていて、たぶん実体験を元にして話しているはずで意図的な嘘を言っているわけではないのに、現実には存在しないことを言ってそうに思うことは多いんですが、寺田寅彦はこういった怪異の発言について、まずこのように考察します。
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  身辺に起こる自然現象に不思議を感ずる事は多いが、古来のいわゆる「怪異」なるものの存在を信ずることはできない。しかし昔からわれわれの祖先が多くの「怪異」に遭遇しそれを「目撃」して来たという人事的現象としての「事実」を否定するものではない。quomark end - 怪異考 寺田寅彦
  
 述べている人の、訴えたい心情は理解できるけれども、事象としてはありえないだろうと判断していて、さらにこの誤認の現象はなぜ起きたのか、をさらに論考してゆきます。見まちがいや勘違いの仕組みを読み解いています。見間違う、判断し間違う、言い間違う、聞き間違う、読み間違う、推測しそこなう、といったあらゆる間違いのフィルターを除去していって、じっさいにはどういうことがあったかを空想してみて考察する。
 よく、歴史家や研究者や記者は、とにかく足を使って事態を調べて、一次資料を重んじて、「又聞きの又聞き」みたいな存在である三次資料をほとんど重視しないらしいんですが、寺田は今回、二次資料や三次資料を元に考えるにはどうしたらいいのかを、今回書いています。
quomark03 - 怪異考 寺田寅彦
 錯覚や誇張さらに転訛てんかのレンズによってはなはだしくゆがめられた影像からその本体を言い当てなければならない。それを的確に成効しうるためにはそのレンズに関する方則を正確に知らなければならない、のみならず……(略)quomark end - 怪異考 寺田寅彦
 
 これについて論考するには、空想の小説の形が良い、と寺田寅彦はいうのでした。小説にはそういう機能があって、そういえば歴代の古典の哲学者も、小説形式で哲学を展開したなあ、と思いました。それで全体30%の序盤から小説が記されます。高知県の荒海のそばで「ジャン」という怪音を轟かせる怪物が現れる、というんです。この記録はあまたに残っている。大森博士をはじめ幾人かの人々がこの記録を調査した。海峡の近くを走る断層線で、なにかの地鳴りが起きて、これと荒海の印象が、この怪しい「魔物」を生じさせた原因ではないかと、いうように記していました。くわしくは本文をご覧ください。
 

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追記  もう一つの「怪異」「小説」は「ギバ」という魔物について記したもので、「玉虫色の小さな馬に乗って、猩々緋しょうじょうひのようなものの着物を着て、金の瓔珞ようらくをいただいた」女が馬を襲うんだという、伝承について読解していました。読み方としては正しくないんですが、すごい妖怪の擬古典漫画で魅力的な作品でした……。寺田は草原で起きる夏の放電現象が原因ではないか、と指摘しているのでした。
  

生産を目標とする科学 戸坂潤

 今日は、戸坂潤の「生産を目標とする科学」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 100年前は工作機械が大規模に発展した時代で、今は情報機械と言えばいいのかAIが人間の仕事以上の仕事量をこなしはじめている時代で、ちょうどいま読むと、100年前の科学論が、今の問題も示唆しているように思いました。思想家の戸坂潤は、まず科学と技術の関係について読み解いて、科学の進展によって技術の進展がなされることがある、それから科学は技術と無縁に、認識だけを進展させることがある「科学は認識を目的とするもの」とも一般には考えられてきた。「科学の目的は認識であり、そして認識は実践と統一されている」それから「やがて科学は技術への手段であるという風に考えられ」てゆく、と戸坂は指摘しています。
 科学の進展が何をもたらすかというと、いっぽうでは認識だけを進展させ(軽薄なヒューマニティーや軽薄な文化を進展させ)る。もういっぽうでは実践と技術を発展させ、功利主義や実行主義というのをうみだす。二極ともまあまあ行き詰まってゆく。ここで思想家の戸坂潤はこういう疑問を提示します。「科学の目標は認識であるだろうか」そうではないはず、と戸坂は考えます。人間がつくる「科学の目標を技術と直接結びついたものとして設定すべき」だろうと述べるんです。現代の高度な科学者は、AIが作り出す新しい社会についてさまざまに論じているんですけど、おおよそ百年前の戸坂は、本論では、こういうことを述べています。
「科学は認識を目標とすると云う代りに、科学は生産を目標に」して「物を造るものだ」そして、「本当の問題は科学に於ける生産」とは何かを考えることが重要で、アインシュタインの「測定し得るもののみが科学的に存在する」という考えをもう一歩まえに進めて「操作し得るもののみが人間に貢献する科学」であって「操作」というものを「造る」という範疇に連絡してみればどうなるか、考えてみようと、読者に呼びかけていました。
 

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 操作不可能な科学技術は、人類に貢献しない……というのはたしかにその通りだなと思います。電車は操作せずに乗るからこそ安全なんですが、操作の権限が人間にある。核や公害について考えると、なにをもって操作できている技術とするのか、も問題に思いました。
  

学問のすすめ(5)福沢諭吉

 今日は、福沢諭吉の「学問のすすめ」その5を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 「学問のすすめ」第1編から3編までは、じつは小学生が読めるように、わかりやすい言葉で書いてきた、と福沢諭吉は書きます。古い言葉で読みにくいところはあるんですが、内容は分かりやすいところも多いと思います。4編と5編は、学者批判を記しているので難しい内容で、6編からはまた小中学生が読める内容を書いている、そうです。
 福沢諭吉は独立して生きられる状態をとかく重んじていて、これが失われれば悲しいことであると、書いています。
 近代の日本はまだ、国際関係が出来ているわけでは無く、まだ幼子が家の外に出てないようなものだと、書いています。不当な支配を受けないための闘いが出来る知恵がある人のことを「独立の気力」がある者、というように述べているんです。学校や工業や軍事を表向きそろえたとしても、独立が成立するわけでは無い、という指摘がありました。
 独立した状態というのはほんの数年くらいで失われがちな存在であって、初期の慶應義塾であっても、これは失われる可能性がある。形だけ整っているのはこれは独立の状態では無いようなんです。人々が独立しようという気力を漲らせられるように、なすべき事をなせていることを、独立している、と記しているのでした。今回の論は、研究所や私立大学の経営論なのでは、と思いました。
 

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文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介

 今日は、芥川龍之介の「文芸的な、余りに文芸的な」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これは谷崎と芥川の有名な文学論争で、芥川はまずこう書いています。
「話の奇抜であるか奇抜でないかと云ふことは評価の埒外にあるはずである」
 谷崎といえば、与謝野晶子訳があるにもかかわらず、源氏物語の現代語訳を1938年ごろから晩年の1965年にかけて三回も作っていることで有名だと思うんですが、今回の議論で、芥川はこう告げています。
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 僕は決して谷崎氏のやうに我々東海の孤島の民に「構成する力」のないのを悲しんでゐない。quomark end - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介
 
「入り組んだ筋を幾何学的に組み立てる才能」は「源氏物語」のころから盤石で日本作家は「かう云ふ才能を持ち合せてゐる」というように芥川は、指摘しています。谷崎はこれにどうも影響を受けて、十数年後の1938年ごろに源氏物語訳をはじめて、谷崎はこの源氏物語の翻訳を一生の仕事にすることに、したのでは、というように自分には思えました。
 序盤で志賀直哉論が記されているんですが、氏の思想の「清潔さ」に重きを置いて論じているのが印象的でした。芥川と谷崎の論争は、おそらく志賀直哉氏が持っている道徳的な清潔さに欠けている創作の箇所に、両者の文学上の問題意識があったのではと、思います。
 ほかにも漱石や北原白秋や啄木や正宗白鳥や芭蕉や、ゲーテやシェイクスピアやトルストイ、神曲や近松、ランボーやヴィヨンなど、近代の代表的な文学性についてさまざまに論じているので、近代文芸の全体像が見えてくる、すてきな評論に思いました。本論の主な論旨は本文にこう書いていました。
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  僕は何度も繰り返して言ふやうに「筋のない小説」ばかり書けと言つてゐるわけではない。従つて何も谷崎潤一郎氏と対蹠点に立つてゐる訣ではない。唯かう云ふ小説の価値も認めて貰ひたいと言つてゐるのである。quomark end - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介
  
 中盤で中国文化を模倣すること、西洋人が日本の美術を模倣すること、創作における模倣と昇華について論じています。文芸における、代作と師弟にかんしてちょっと書いているんですが、そういえば哲学者のソクラテスや老子は、弟子によって公式に書かれた思想書なので、文学に代作者が居てもなんの不思議も無いはずだ、と思いました。遠野物語などの、聞き書きの文学はいわば代作の芸術に近いところがあるのでは、と思いました。終盤では、ギリシャ芸術に関する、憧憬と不可思議さについて書いています。
中盤65%あたりから、谷崎潤一郎と源氏物語のことを記していて、やはりこの本の文芸的思索も手伝って、谷崎は1938年ごろから1965年にかけて、繰り返し源氏物語を翻訳するようになったんだろうと、思いました。芥川が小説論を盛んに論じながら「詩人」という言葉に深い思い入れのあることが印象に残りました。本文こうです。
quomark03 - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介
  僕の作品を作つてゐるのは僕自身の人格を完成する為に作つてゐるのではない。いはんや現世の社会組織を一新する為に作つてゐるのではない。唯僕の中の詩人を完成する為に作つてゐるのである。quomark end - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介
  
 終盤では、森鴎外と批評、それから新感覚派や横光利一について書いていました。

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追記  文学上の不思議な話をいくつも書いていて、とくにトルストイとヒステリイについての挿話が興味深かったです。
ほかにも、書かれた作品が古典として残るには「アナトオル・フランスの言つたやうに後代へ飛んで行く為には身軽であることを条件としてゐる。すると古典と呼ばれるものは或はどう云ふ人々にも容易に読み通し易いものかも知れない」というのもすてきな考察に思いました。それから以下の寸評が、芥川の文学創作に於いて重要な記載に思いました。
quomark03 - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介
  僕は義理にも芸術上の叛逆に賛成したいと思ふ一人である。が、事実上叛逆者は決して珍らしいものではない。或は前人の蹤を追つたものよりも遙かに多いことであらう。彼等は成程叛逆した。しかし何に叛逆するかをはつきりと感じてゐなかつた。大抵彼等の叛逆は前人よりも前人の追従者に対する叛逆である。quomark end - 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介 
 最後は、ゲーテの偉大な芸術を前にして、去勢された自己を認識せざるを得なかったハイネの文芸論で締めくくっていました。