野分(12) 夏目漱石

 今日は、夏目漱石の「野分」その(12)を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 漱石の随筆を読んでいてもっとも印象に残ったのは、子規との親交についての記載だったのですけれども、この『野分』という不思議な題名の物語終盤になって、子規と漱石の関係性を彷彿とさせるような、高柳君と中野君の描写がありました。
 漱石が小説をはじめて書いて託したのが、子規が生前もっとも重大視していた文芸誌で、子規の弟子がこの原稿を受けとっていった。そこから漱石文学のすべてが始まった。「猫……」「坊っちゃん」「草枕」と書いて創作の中盤にさしかかって、漱石の原点がこの物語に書き記された、というように思いました。ここから「三四郎」「それから」「門」が始まってゆく、そういう熱い予感のする最終回でした。
 

0000 - 野分(12) 夏目漱石

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追記
次回から谷崎の本を読んでみようと思います。

野分(11) 夏目漱石

 今日は、夏目漱石の「野分」その(11)を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
  「野分」は台風か、それに匹敵する強風のことを意味しているのですけれども、漱石はあんまりこの風のことを書かないんです。漱石の今回の物語は、なんだか舞台劇のような気配がする、会話が中心の物語に思います。読んでいてとてもおもしろいのですけれども、「夢十夜」や「草枕」と比べると、風景の美しさというのは、あまり表現されていません。そのなかでこういう表現が印象に残りました。
quomark03 - 野分(11) 夏目漱石
  今日もまた風が吹く。汁気しるけのあるものをことごとく乾鮭からさけにするつもりで吹く。quomark end - 野分(11) 夏目漱石
 
 今回は、漱石の講演会にそっくりな、主人公白井先生の講演会が記されてゆきます。文学に生きるというのは、未来のために生きることだ、と説きます。尾崎紅葉や樋口一葉という「これらの人々は未来のために生きた」というように論じています。文化における、初期と中期と後期の違いのことを論じているのも興味深い内容でした。それから「自己に何らの理想なくして他を軽蔑するのは堕落である。」と白井道也先生が講演会で述べてゆきます。「奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りようがない。西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度において皆奴隷である。」というのも漱石の読書論として読めるように思いました。 「理想は諸君の内部からき出なければならぬ。諸君の学問見識が諸君の血となり肉となりついに諸君の魂となった時に諸君の理想は出来上るのである。付焼刃つけやきばは何にもならない」というように若者たちに語りかけてゆきます。
 「血を見ぬ修羅場は砲声剣光の修羅場よりも、より深刻に、より悲惨である」と作中に書くのですが、漱石と親友の子規は、創作中にかなりの苦心があったわけで、じっさいに短命の文学者だった。漱石の考えというのが、今回の作中に色濃く記されているように思いました。この第11話の講演の内容だけを読んでみるのも、じゅうぶん読み応えがあるように、思いました。
 
「学問をするものの理想は何であろうとも——金でない事だけはたしかである」と白井先生は言うんですけれども、こういう話も面白かったです。じっさいの大手出版社や著名作家がどうやって文学活動を維持しているのか調べてみると、たいていはマンガ週刊誌や学校経営で得た大きな収益を、文学者に分配して安定をもたらしている、というのが分かるんですよ。
 漱石の時代は学問が金になるはずの無い環境だったわけで、もっと昔になると、紫式部や清少納言のように、もはや金に困らないだけの地位や環境が無いと、文学は創作できなかったように思いますが、漱石もいちおうはそのように、先に教師としての労働を済ませてから、時間的経済的な余裕を持ったあとに、金のことを考えずに文学創作を始めたと思います。近代は、現代の複雑怪奇な社会構造とちがっていて、まだ仕組みが始まったばかりなので、これを読んでゆくと、社会の骨組みが理解しやすいように、ちょっと思えました。漱石はこう書きます。
quomark03 - 野分(11) 夏目漱石
  一般の世人は労力と金の関係についてだいなる誤謬ごびゅうを有している。彼らは相応の学問をすれば相応の金がとれる見込のあるものだと思う。そんな条理は成立する訳がない。学問は金に遠ざかる器械である。quomark end - 野分(11) 夏目漱石
 
 現代では質の高い学を習熟すれば資本もしっかりついてくるように見えます。学歴の高い人がじっさいに収入が多いですし。そういうようにいっけん見えますけど、よく調べてみると、じっさいに儲かっているのは学問を究めた人じゃなくって、商売人であって、商売人と学者が、上手く協業しあっているのが現代社会に思います。近代にはそういう構造はまだなかった。そういう時代に、金力と学問の関係性を漱石が考察しています。いま読むと、もともとの社会ってこうなってたのか、骨組みが見えるなあ、と思うんですよ。
 エレベーターという完成品の内部に入って、白い天井やボタンをいくら見つめていても、どうやって動いているのかその仕組みがちっとも分からないですけど、井戸のつるべをみるとその仕組みが分かるわけで、近代の本を読むと、現代の構造がちょっと見えてくるように思いました。

「学問は金に遠ざかる器械である」という断定がなかなか現代人の言えるはずのないことで、おもしろいなあーと思いました。今回の第11回の内容はほんとにいろいろ考えさせられる内容なんです。ぼくの抜粋なんかよりもぜんぜん興味深い内容で、ショーペンハウアーの哲学みたいですし、漱石の本をちょっと読んでみたいという方は、この第11回の講演部分だけを読んでみるのも、お薦めできると思います。
 

0000 - 野分(11) 夏目漱石

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野分(10) 夏目漱石

 今日は、夏目漱石の「野分」その(10)を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 今回は、文学者の白井先生が、経営の成り立ちがたい文芸誌の編纂について語っています。
 近代の文士は食えないし不成功が当然の事だったように思います。鴎外や初期の漱石は、収入源が文学活動では無かったわけで、軍医の仕事や学校の先生としての仕事をしてそれで家族を養っていたわけで、文士としての収支はまず厳しいものだったと思います。
 近代文学は、優れた人が困難にどのように向かいあっているのかを読んでゆくことが出来るので、そこがこの時代の作品の魅力のうちのひとつだと思いました。白井道也は貧しいながらも文学をとにかくやりたいわけで、そうなると富裕層の不正を糾弾するということに自然になってゆく、それがいろんな人の目についてしまうわけです。
 そういえばアンデルセンは、数多の詩を書いたのにも関わらず、創作で儲けられるということがほとんどなく、どうやって暮らしていたかというと、パトロンに気に入られることで、資金を得ていた。いわばスポンサーに保護してもらっている状態だったらしいです。それでその資本上の独立がむつかしい、という不自由から脱却したくて、ずっと独身で旅ばかりをしており、子どもたちのための童話をあまたに書いた、ということらしいです。
 白井道也の場合は、妻帯者なんですけれども、とにかく文芸で儲かるというのは出来ない状態なんです。もうちょっとあとの菊池寛あたりの時代にならないと、文芸で資本が動くということはなかったようで、当時は地位のある仕事をやりつつ副業のように文学に向かいあうしかなかったと思われます。白井道也の活動を見てゆくと、文学だけをやっていて資金の流れが駄目になっている、それで妻と親戚とが相談をして、文芸誌を辞めて教師になるようにしむけたらどうだと、いう話が出てくる。
  お金を工面してやっているのだから、言うことを聞きなさいよと、いうようなことを白井道也は言われそうなんですよ。本文と関係無いんですけれども、アンデルセンが結婚できなかった理由は、自由な資本というのを持つことが出来なかったからなのかもなあ、とか思いました。漱石はこう記します。
quomark03 - 野分(10) 夏目漱石
  雑誌なんかで法螺ほらばかり吹き立てていたって始まらない、これから性根しょうねれかえて、もっと着実な世間に害のないような職業をやれ、教師になる気なら心当りを奔走ほんそうしてやろう、とけるのですね。——そうすればきっと我々の思わく通りになると思うquomark end - 野分(10) 夏目漱石
  
 いっぽうでとうの白井道也は、デカい広告をつくって、青年たちに演説をぶちかましてやろうと、準備をしている。これで本が売れるようになるのかもしれない。次回に続きます。そろそろ終幕なんです。
  

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野分(9) 夏目漱石

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 前回と今回の第8・9回の展開はちょっと意外なもので、それまでの鬱々とした文芸誌の編纂事情とは打って変わって、才能があって人気もある中野君が結婚をする話なんです。
 漱石は「円満なる愛は触るるところのすべてを円満にす」とか「愛は堅きものをむ。すべての硬性を溶化ようかせねばやまぬ」と記します。
 そういった華やかな披露宴に、いつも孤立している高柳くんがやって来ることになっていた。彼は中野君を祝福したいんですけれども、自分は招かれざる不運を運んでいるような人間だというような錯覚がある、だから親友の目出度い現場を「敵地」だとか思ってしまう。「高柳君の服装はこの日の来客中でもっともあわれなる服装である」と記されています。高柳君は、幸福すぎる現場で、ぼんやりしています。この二人のギャップを漱石が描きだしていて、なんとも妙味のある場面に感じました。
  

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野分(8) 夏目漱石

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 蛸薬師という謎の存在について、ぼくは気になったことがいちども無かったのですけれども、漱石がこの蛸寺のことをちょっと書いていたので、はじめて調べてみました。病におちいった母が蛸を食べたいというので、それを手に入れてきた。だが僧が蛸を食うとはどういうことだと問いつめられた。ところがそれがありがたい経典に変化したという……。分かるような分からないような逸話を発見しました。
 高柳君と道也先生でちがうのは、世間の事細かな事象に敏感であるかどうか、など、さまざまにあるんです。それを漱石が比較して書いてゆきます。道也先生は「かえりみるのいとま」がなくて本業だけに意識が集中しているんです。いっぽうで高柳君は、あらゆることを知ろうとしすぎている。
 今作の「野分」では、嵐や台風はとくに生じないのですが、やはり風が作中にあまたに描写されます。ここが漱石の散文詩なんだと思って読むこともできます。これを鑑賞するのも面白さのひとつだと思いました。それから漱石の病の描写は漱石の実体験も混じっているはずで、迫力のある描写に思いました。
「野分」がどういう小説か知りたいけれども、全文を読む時間がない場合は、とりあえずこの第八話だけを読んでみると、漱石文学がどういうものか、あるていど分かると思います。
 

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野分(7) 夏目漱石

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 与謝野晶子の乱れ髪の歌集を彷彿とさせるような詩を歌う女が、登場します。それからミロのヴィーナスの塑像について男女二人で論じ合うんです。西洋の神と、みだるる髪。この作品の題名は『野分』なんです。野分というと台風のことで、てっきり罹災にかかわる本なのかと思っていたのですが、どうもそうではないようで、文士たちの活動が静かに描写されてきました。今回の第七話でやっと『野分』と記されたんです。調べてみると、この長編小説に『野分』と記されるのはたったの1回だけで、こんかいのこの詩だけで使われているんです。ですから漱石はここの詩のイメージを物語の中心に、したことになるはずなんです。こういう新体詩です。
quomark03 - 野分(7) 夏目漱石
  いたずらに、吹くは野分の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
 みだるるよ、みだるるよ。quomark end - 野分(7) 夏目漱石
 
 漱石が、ここで与謝野晶子の「みだれ髪」を想起していない、というのは確率としては低いはず、と思います。与謝野晶子の文学からインスパイアされて、作中の女性が生き生きと記されていった、かもしれない、と空想をしました。与謝野晶子にはこういう歌があります。
quomark03 - 野分(7) 夏目漱石
  夏花に多くの恋をゆるせしを神悔い泣くか枯野ふく風quomark end - 野分(7) 夏目漱石
 
 自由恋愛は難しい時代に、与謝野晶子の詩歌は、世間や文学界からみたら衝撃だったはずです。ぼくの空想では、漱石はこういった歌をイメージしつつ、この物語を紡いだのではないかと、いうふうに推測しました。ただ今回は、漱石にしては珍しく、男女の関係性はほぼまったく描かれずに、孤立しかかっている三人の男たちが記されてゆくんです。「野分」という言葉も、自然界に於ける野分というよりも現代でも使われる言葉でいうと「風当たりが強い」というような世間からの圧力のことを「野分」と記しているんです。野分に漱石はこう記します。
quomark03 - 野分(7) 夏目漱石
  中野君は富裕ふゆうな名門に生れて、暖かい家庭に育ったほか、浮世の雨風は、炬燵こたつへあたって、椽側えんがわ硝子戸越ガラスどごしにながめたばかりであるquomark end - 野分(7) 夏目漱石
 
 というように本文では書かれています。「野分」の意味は近代の文士に対する、この「浮世の雨風」のことを意味しているんです。批評性を持つ文学者が、世間からの排斥を受ける。自分としては、この小説の想像力は、与謝野晶子夫婦が世間から受けた不当な風雪について考えたこと、それをメタファーとして物語にしていったように、自分としては思えました。作中で高柳君は、最初は多数派を操る権力者たちに従ってしまっていて、白井先生を不当に攻撃していた。ところが白井先生の文学を垣間見て、その考えを改めて、世間の風を受けて立つ、という意志を持ちはじめている。こんかいの第七話は急に男女のことが記されていて、女には、まるで源氏物語の中心人物のように名前が記されておらず、なんだか不思議な展開でした。
 

0000 - 野分(7) 夏目漱石

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