学問のすすめ(15)福沢諭吉

 今日は、福沢諭吉の「学問のすすめ」その15を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 今回は、決断することや判断することを論じています。「信の世界に偽詐多し」ということを書いていて、きちんと疑って判断するということを説いています。「人民は事物を信ずといえども、その信は偽を信ずる者なり」と書いて、疑問をもつことによって「西洋諸国の人民が今日の文明に達したるその源を尋ぬれば、疑いの一点より」はじまっている。「ガリレオが天文の旧説を疑いて地動を発明」するといった、学問の発展には、疑問を持つという一点がとかく重大である、ということを説いています。「売奴法の当否を疑いて天下後世に惨毒の源を絶えたる者は、トマス・クラークソンなり」と福沢諭吉は書きます。
 ここで「学問のすすめ」の冒頭の、人間には生まれながらの上下の差は無く、ただ学ぶか学ばないかによって、人生の良し悪しが決まってしまうという福沢の論旨が纏まってきたように思いました。
 不動明王を信じて断食に励めば落命してしまう、というように信じることで不幸になる可能性を今回さまざまに例示していました。みずから疑ってみて判断をする、ということが学ぶということだ、と書いています。本や言葉を信じるな、とも書いているんです。本文にあるように「占いを信じてしまって良縁を失った」というように言われてしまうのは、なんだか酷なのではというようにも思いました。
「フランスの人民は貴族の跋扈に疑いを起こして騒乱の端を開き、アメリカの州民は英国の成法に疑いを容れて独立の功を成したり」という一文も印象に残りました。
 古人の妄説に個人的な疑問を抱く、批評的に読むことの重要性を説いていました。
「数千百年以来の習慣に疑いを容れ、これを変革」するようにすすめています。
 福沢諭吉は疑問を持つ時の方法論も説いていて、「軽々しく信じたり、軽々しく疑ってはならない」というように論じています。真偽を考察するには「取捨の明」が必要で、学問の要はこの真贋をみきわめる知を明らかにするところにあると書いています。自発的な問いを重要視し、信じすぎるとか疑いすぎるという極端なことにならないように、と福沢はすすめています。文明開化の時代の、早急な模倣の危険性を論じていました。とくに西洋文明の悪しき箇所を、分別なく模倣することがとかく危険であると説いていました。とくに貧富の差が極端すぎるところなどを真似ることは危険だと書いています。
 簡単に信じてはいけない、簡単に疑ってはいけない、疑問を持つことが学問の要だ、と繰り返し書いていました。
 文明が急に進展して風俗が激変する時代には、人々は真偽の取捨選択ができずに狂いがちであって、そういう時代にこそ学者は勤めなければならない、と書いていました。
 それから今回は、伝統的な宗教のことも少し論じていました。マルティンルターと仏教と、非暴力のことを書いていました。あと2回で完結します。 
 

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★ 『学問のすすめ』第一編(初編)から第一七編まで全文を通読する
 
追記   すごいどうでもいい雑学も、福沢諭吉は書いていて、150年前の日本人は、風呂は20日に1回くらいで、トイレのあとに手を洗わない、ティッシュペーパーも持ってない、ということを、この本に書いていました。日本人は清潔だ、というのは良く言われることなんですが、150年前はどうもそうじゃなかった。慶應義塾をつくった福沢諭吉は清潔が好きだったんだなと、思いました。慶應を作った人がもし仮に不潔だったとしたら、やはり新しい学問をするという長年の商売は、成り立たなかっただろうなと思いました。汚れた絵画を見るのがとかく好きな自分としては、妙な事実を発見したように、思いました。