道楽と職業 夏目漱石

 今日は、夏目漱石の「道楽と職業」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 漱石はこんかい善い道楽というのがあり得るかどうかまずは考えてみて「道楽と職業というものは、どういうように関係して、どういうように食い違っているか」を論じてみる、と告げるところから話しが始まります。秀才なのに就職できない、という人が漱石の時代には多いことをまず問題にしています。
 漱石の「三四郎」や「それから」に描きだされる、仕事や結婚をどうするのか、という問題には、漱石の今回のような論述や、正岡子規との親交が深く関わっていると思います。漱石の本は、読者を学生のように捉えて書いているところがあって、それで読者としてはずいぶん親身な先生が書いた本として読めるところがあるんだと思います。
「着物を自分で織って、このえりを自分でこしらえて、すべて自分だけで用を弁じて、何も人のお世話にならないという」太古の時代があった。「そういう時期こそ本当の独立独行という言葉の適当に使える時期」だと漱石は言います。
 私たちは「太古の人を一面には理想として生きているのである。けれども事実やむをえない、仕方がないからまず衣物を着る時には呉服屋の厄介に」なって社会生活をしている。「己のためにする仕事の分量は人のためにする仕事の分量と同じであるという方程式が立つ」と漱石は言います。自分の中で適性や技術がある箇所を伸ばして、仕事をしている。それで得たお金を使ってべんりにものを手に入れて生活する。
 漱石の言う、自給自足をしつづける太古の独立した人間や、交換で経済活動をする人間たちの話しを読んでいて、デジタルデトックスというのを連想しました。ケータイやPCをまったく使わない日をつくってみる、というのが最近よく言われていて、じぶんもそういう日を作ってみることにしたんですけど、漱石は原始的な暮らしというのと、文明的な暮らしをまず比較することで、仕事の考え方の根本的なところを見直してみるということを試みています。
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 人のためになる仕事を余計すればするほど、それだけ己のためになるのもまた明かな因縁いんねんであります。quomark end - 道楽と職業 夏目漱石
 
という中盤の一文が印象に残ります。漱石は「人のために」動く、という言葉の意味を、まずは軽い意味でとらえてくれと述べています。ちょっと他人の「ごきげんをとる」というだけでも人のために動いたことになる、と漱石は言います。
 やや不道徳なかんじで仕事をしていても、しっかり儲けていてエライ人が居るでしょう、と漱石は言います。現代的に言うと、ハメを外して面白いことをするYouTuberみたいな人のことだと思います。道徳や倫理の視点から見たらなんだかヤバイ奴であっても「おおくの他人のごきげんをとっている」という点において、人のために動いているから、本人もぜいたくに生きられる。「道徳問題じゃない、事実問題である」と漱石は指摘します。漱石は人気のYouTuberを論じてみたりするんだなと思っておもしろかったです。
 ピューディパイと比べてみると、漱石は「私は今ここにニッケルの時計しか持っておらぬ」ので資産と人気で見劣りしてしまう。どうも金銀ダイヤモンドに囲まれたピューディパイと比べると「人の気に入らない事」を漱石はやっているからこうなっているのだと、漱石は自己分析します。「いくら学問があっても徳の無い人間、人に好かれない人間というものは、ニッケルの時計ぐらい持って我慢しているよりほか仕方がない」ので、漱石も正岡子規も、安泰の人生というわけではなかったようなんです。
 「何でもかでも人に歓迎される」ようなそういう仕事はたしかにあると。安価なのに良い効果がある化粧品とかを売っている仕事とかです。
「職業上における己のため人のため」ということの意味は、まずはこういう意味であると、漱石は言います。そうして職業は専門化して特化して先鋭化してゆく点…「職業の分化錯綜さくそうから我々の受ける影響は種々ありましょうが、そのうちに見逃す事のできない」妙なことを引きおこします。それは「お隣りの事がかいもく分らなくなってしまう」と言うんです。
 明治の終わりの近代文明は完全な人間を日に日に不都合な人間にしてしまう、と漱石は指摘します。これは現代でも起きていることのように思います。
 職業が細分化して特化しつづけると「今の学者は自分の研究以外には何も知らない」というような状況が起きます。専門化がきわまってゆくと、実に突飛なものになってしまう。と漱石は警告します。これはべつに高給取りや秀才に限らないんだと、漱石は言います。どうしてかというと、専門家のことを必要以上に信用しすぎているからで、疫学専門家の警笛を真に受けてしまってコロナが心配で親交も恋愛も結婚も出来なくなってしまったとか、ゲーム実況動画がおもしろいのでそればっかり見てしまって仕事と学問を疎かにしてしまった場合は、専門家を重んじすぎているのが原因かと思われます。
「自分の専門にしていることにかけては」「非常に深いかも知れぬが、その代り一般的の事物については、大変に知識が欠乏した妙な変人ばかりできつつある」と漱石は警告します。
 後半で漱石は、文学の作用についてこう述べています。
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  文学上の書物は専門的の述作ではない、多く一般の人間に共通な点について批評なり叙述なり試みた者であるから、職業のいかんにかかわらず、階級のいかんにかかわらず赤裸々せきららの人間を赤裸々に結びつけて、そうしてすべての他の墻壁しょうへきを打破するquomark end - 道楽と職業 夏目漱石 
 
 ですから漱石は、現代の専門家になろうとしている人々にこそ、漱石文学を読んでもらいたい、ということになります。職業は「他人本位」のものであって、道楽は「自己本位」のものなんです。稼ぎ頭のYouTuberの方針を決めているのは、視聴者ぜんたいの動きによるところが大きい。じゃあ文学はどうなのか? 終盤での漱石の文学創作論は、こうなっています。
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  私が文学を職業とするのは、人のためにするすなわち己を捨てて世間のごきげんを取り得た結果として職業としていると見るよりは、己のためにする結果すなわち自然なる芸術的心術の発現の結果が偶然人のためになって、人の気に入っただけの報酬が物質的に自分に反響して来たのだと見るのが本当だろうと思います。
 (略)いくら考えても偶然の結果である。この偶然が壊れた日にはどっち本位にするかというと、私は私を本位にしなければ作物が自分から見て物にならない。(略)私ばかりではないすべての芸術家科学者哲学者はみなそうだろうと思う。彼らは一も二もなく道楽本位に生活する人間だからである。大変わがままのようであるけれども、事実そうなのである。したがって(略)科学者でも哲学者でも政府の保護か個人の保護がなければまあ昔の禅僧ぐらいの生活を標準として暮さなければならないはずである。quomark end - 道楽と職業 夏目漱石
 
 漱石は自己本位に生きても他人に害悪をもたらさないわけで、論語で言うところの「七十にして矩を踰えず」の仙人みたいな境地で自己本位だったわけで、高度なことを論じているなあと思いました……。
 「職業の性質やら特色について」のべ、それが「社会に及ぼす影響を」論じ、「最後に職業と道楽の関係を説き、その末段に道楽的職業というような」作家について考え、どこまで職業であって、どこから道楽なのかを理解してもらった、という話しで締めくくられていました。くわしくは本文をご覧ください。

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