原子爆弾雑話 中谷宇吉郎

 今日は、中谷宇吉郎の「原子爆弾雑話」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 科学者の中谷宇吉郎が、戦後になってから第二次大戦における戦乱と最新兵器にかかる諸事情について、分析をして書いている随筆です。日本でもじつはこれを研究をしていたのですが、とうてい完成できる段階では無かった。米国では宇宙線の強さを測る研究など、戦時中であっても戦争と関わりの無い研究もさかんに行っていた。いっけん無関係に思えることをいろんな人がやれる状態で、国力に明らかな差異があったことが分かります。原爆開発の危険性を考察し、論理的に自然科学の魅力と重要性を説く、終盤の記載に感銘を受けました。大戦中のナチスはいろんなものと人を追放して、そのなかには優れた科学者もあまたに居て、それが米国に生きてさかんに研究をしたのでした。けっきょくは追放されたものごとのほうが存在感が大きかったように思いました。
 

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月 上田敏

 今日は、上田敏の「月」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 海潮音という詩集をつくった上田敏が、古典を論じた随筆です。徒然草に描かれる月について論じています。春夏秋の、月の美しさを記しつつ、冬の月を愛でる人はほとんどどこにも居ない、という言葉に、この時代まで続いた真冬の厳しさを感じました……。日本画家の加山又造の美術を連想させる、艶やかな随筆でした。船上でみた月の美しさを描く描写がすてきでした。
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  をりしも満月の比にて三保の松原のきは行くとき海上光りわたりて金波きらきらとして舷を打つ、忽ちにして玉兎躍り出でぬ。をりよく雲なく気すみし夜なりしかば対岸の松影歴々として数ふべく、大波小波、磯をうち、うちてはかへすさま夜目にもしるし。quomark end - 月 上田敏
  

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生存理由としての哲学 三木清

 今日は、三木清の「生存理由としての哲学」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 戦争中に書かれた哲学書は世界中にあるんですけど、まだ輸入ものでしかなかった日本の哲学は、どうも生存理由レーゾンデートルとしての哲学としては成立しがたい状況である、と三木清が記しています。
「学校において文学の代りに語学の講義を聞かされて憤ることのできる者」はいっぱい居たんですけど、「哲学すること」のかわりに「哲学の記録の便覧」のはなしをされても「これは違うんじゃないか」と思ったりしない。日本では「哲学すること」が「生きること」とほとんど結びつかないし、教育としては成立しにくい。三木清の文章は、むずかしい問題を分かりやすく書いてくれているのでほんとにすてきだと思うんですが、本文にこう書いていました。
quomark03 - 生存理由としての哲学 三木清
  現代において、哲学するということは、人間の生存理由のいかなるものであり得るか、この根源的な問に対する情熱が哲学者といわれる者の倫理でなければならぬ。科学としての哲学、イデオロギーとしての哲学、等々の問題も、この問に比しては従属的であり、皮相的ですらあろう。quomark end - 生存理由としての哲学 三木清
 
 三木清は、生存理由レーゾンデートルとしての文学は二十世紀の日本に存在する……と文学を肯定的に捉えていたようです。今回の指摘を読んでいて、海外の哲学書を日本語訳で読んで感動した、その理由が見えたように思いました。三木清は「哲学することの倫理について、哲学者が根源的に問うことが何よりも要求されている」と記していました。
 

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文学方法論 平林初之輔

 今日は、平林初之輔の「文学方法論」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 平林初之輔は、あまたの文学を読破してきたその経験から、文学には三つの傾向があることを指摘しています。
 「第一の条件は作者」の「個人性」が作品に色濃く刻まれるということで「第二の条件」は「文学上の流派」やそういった集団からの影響を色濃く受けると言うことで、「第三の条件」は「一般公衆の思想、観念、感情、一言で言へば、イデオロギイ」が作品に影響を与えているというんです。読者がまったくちがう種類のものなら、次の作品は変容してゆく。海外の人が読んだり、数百年後に読まれるときには、おそらく作品そのものや作品の価値も変容する、と考えることが出来ます。以下の文章がすてきでした。
quomark03 - 文学方法論 平林初之輔
 ……第三の条件を忘れてはならぬ。それは作者をとりまいてゐる一般公衆である。一般公衆の思想、観念、感情、一言で言へば、イデオロギイは、文学の流派そのものを決定し文学作品の作者の思想傾向を決定し、それによつて作品そのものを決定する最後の条件である。たとへば、ヴイクトル・ユゴオの『レ・ミゼラブル』を例にとらう。私たちは、先づこの作品にユゴオの個人性の強い現はれを見る。次にユゴオがその指導者の最も輝ける一人であつたロマンチツク派の特色をそこに見る。そして最後に、ロマンチスムの文学がその中で生育したところの当時の一般公衆のイデオロギイ即ちブルジヨアジーの勃興期のイデオロギイをそこに見るのである。quomark end - 文学方法論 平林初之輔
 
 今回の評論を読んでいて、100%のまちがいが2箇所あって、これが気になったので調べてみました。1つめは「一切の理論は経験から出発しなければならぬ」という平林の主張についてなんですが、理論のほとんどは、経験に先立つアプリオリなものを記したのであって、平林初之輔の主張は間違っています。平林はカントの後の時代なのですけれども、この箇所で考えかたを間違っているか、書き方をまちがえたことになります。「経験から出発するだけでなく、経験に帰つて来なければならぬ」という平林の主張は、魅力的な方針であるとは思うのですが。
 次に「……生れたものは生まれながらにして」という箇所で、たとえばラフカディオハーンの子孫が居ることを考えずに書いているので、これも書き間違いです。ほかにも文学理論をいろいろ書いていってます。数学の本だと、正解か誤答かしかないんですけど、文学の理論となると、だいぶこういろんな要素が混交していて、間違ったことを書いているのに勉強になるところがある、と思いました。
 百年前は図書館も使えなければwikipediaも無かったので、思考や推論に明らかな間違いが混じっているんだなあと、思って、なんだか不思議な気分になりました。本物の現代哲学者は判らないことがあると、wikipediaもGoogleもまったく使わずに、まずは自力で問題に取り組んで、もっぱら自らの頭脳を使いこなすらしいです。ぼくはまっさきにwikipediaを検索してから腕組みして検討するんですけど。平林は終盤でこう書くんです。「誤解やまちがひが多分にあることと思ふ。併し、それは、この試みがまだ極めて幼稚な段階を進んでゐるに過ぎない事実に免じて、見のがしてもらへるだらうと期待してゐる。」
 百年前と今はずいぶんちがうんだなあと思いました。平林初之輔は、文学に影響を与えるものを、自然界や経済や政治や社会から読み解くのですが、平林がもし、0円で書いて0円で読むwikipediaを論じたら、いったいどういう論を導き出すんだろうかと思いました。
文学の理論よりも、理と論ってなんなんだろうと思わせる、不思議な随筆でした。
 

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愉しい夢の中にて 坂口安吾

 今日は、坂口安吾の「愉しい夢の中にて」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 ベッドの中で見る夢の中くらいでしか、楽しいことがないという時期は、誰にでもありえると思うんです。安吾の時代は、現代社会よりも暗澹とした日々の中に居て、飢えと病と戦争に向かいあわねばならなかった。
 夭折した河田と、安吾は夢の中で楽しく話した。その記憶が小説として再現されていました。すてきで幻想的な邂逅が描きだされていました。
quomark03 - 愉しい夢の中にて 坂口安吾
  彼はひどい貧乏であつた。無一物で、ガスも電気もとめられて、食事もできない毎日の中で、恐らく人間としては最も窮乏した生活を暮した男であるが、あそこまで窮乏すると、もう人間は妙にみぢめな暗さからは脱け出してしまふ。(略)
 私は河田の芸術が好きであつた。あの男は沢山の失敗作を書いた。大部分は失敗の作であると思つてゐる。併し、あの失敗の底に光る高い精神と、輝やく眼光は大成の日の豪華さを思はせたのである……quomark end - 愉しい夢の中にて 坂口安吾
 

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私の信条 豊島与志雄

 今日は、豊島与志雄の「私の信条」を配信します。縦書き表示で、全文読めますよ。
 これは作家で翻訳家の豊島与志雄が、個人的な自由のことを語っている随筆です。もとからひとりっ子で1人の時間が長く、他人と約束をして時間の進行が固定されることに慣れていない、そういう作家の人生が描かれています。時間の余裕とお金の余裕はじつは繋がっていないことが、よくあると思います。お金は無いけど時間だけある人も居れば、一生分の貯金はあっても時間の余剰は少ない人もいる。近代文学のたいていは、時間が豊富にある人の話が多いと思います。与謝野晶子と漱石と鴎外が、時間の無いところを豊かに生きたんだと思います。豊島与志雄のこの文章がすてきでした。
quomark03 - 私の信条 豊島与志雄
 打ち明けたところを言えば、仕事の実践よりも、それ以前の瞑想の方が遙かに楽しいのである。原稿紙に向っての文字による造形には、一つの決定的なものが要請されるが、その一歩手前の瞑想には、無限の可能性が含まれる。この可能性の中を、私は自由に逍遙したいのである。仕事に怠惰であっても、瞑想に勤勉だと、自惚れている始末だ。quomark end - 私の信条 豊島与志雄
 

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 言葉にされることのない詩心や、記されることのなかった偉人、ということについて考えるのが文学なのでは、と思いました。